僕らはなぜ大人になるのかな

だいすきたかはしかいとくん!

夜なので

※このお話はフィクションであり単なる気まぐれな思いつきです。

Twitterって難しいなって思う。わたしはいわゆる本気愛でもなければ同担拒否でもない。それでも海人くんを応援する人と繋がるときは慎重になる。それは、夜中にビロードの闇をリピートしようとしたのにときめきすぎて結局1.5回再生したら休憩を挟まないといけなくなったことや、クリエの落選メールが届く度にどこかで海人くんのお仕事に勝手に期待したりうなだれたりしてすっかり疲れてしまうこととはほとんど関係ないのだ。虚像の方の海人くんがたくさんいること、それだけがわたしを臆病にする。もしあなたのなかにもちがう彼の像があったとしても、それがわたしのものと一致するなんてあり得ない。そのズレを認め合うのって難しい。もし像が酷似していたとしても、わたしはその周りにロープを張って警備員をおいて静かに遠くから眺める人で、あなたはそれを街の中心の人だかりのあるところに置いてそこで誰かと待ち合わせする人なんてこともある。それってとっても大きな違いなのだ。だから、一人ひとりとゆっくり像を披露し合い、語らうのがきっと一番楽な方法なのだ。なのに、アイドルを応援するにはどうしてもこの虚像をつくることが必要になる(とわたしは思っている)。そしてそれには多少の犠牲が伴う。犠牲といっても、これは世間からみたらそう映るというだけで、多くの当事者にとってはある種の快楽だ。

眠れないこんな日は、その偶像のレシピでもお話しましょうか。

いちばんはじめにわたしがここにコロッと落ちて拾った彼の欠片は、ダンスでみせたしなやかな動きだった。ここから虚像づくりが少しずつ始まった。初めは気づかないうちに見えないものがなくなっていった。彼のことが気になって、彼について調べるため、彼についてもっと知るためにどんどん自分の時間が奪われた。そして代わりにちょっとした幸せな気持ちと少しの彼の外枠を得る。次に知らないうちに見えるものがなくなる。どうしても欠片を手元に置いておきたくて、初めてわたしは彼に投資する。時間やお金、脳の容量に電子機器の容量。友達との話の種にこれまでの趣味。勉強するためのスペースに好きな色。大きなものから小さなものまでたくさんのものを失って、いや、むしろ自ら手放して彼の欠片でやみくもに埋めて。しまいには、一番大事なわたしの中心も危うく手放しそうになる。わたしの人生の主人公が彼で、彼の夢がわたしの夢で、わたしとアイドルが溶け合ってしまえばいいのに。そうおもうたびに、周りのひとやものがわたしの軸を支えようとする。わたしはとっくにその軸の存在さえ忘れてしまったのに。軸がないわたしはふにゃふにゃだ。軸のところには海人くんの夢を少しちぎって、間に合わせとしてそれを詰めてある。もしかしたら、このふにゃふにゃは海人くんの声の甘さにとろけてしまったからなのかもしれないけれど、その可能性はここでは考えないことにしよう。ふにゃふにやになると、人間、中からいろんなものが溢れでてしまう。それがどこに行くのか。これこそが虚像を成り立たせる一番の核なのです。像というのは、これまで集めた欠片でできた外枠だけではすっからかんで崩れてしまう。なにしろメディアやらなんやらそういった類いのものから集めたものは薄くて脆いのです。その欠片からわたしは色んなことを想像して、外に投げ出された自分の中身をこねくりまわし、そこに新しい色をつけて虚像の完成度を高める。右手の人差し指を立てて顔の横で振るという動作を何度も見れば、わたしはそれを勝手ながら彼の癖とするのです。いつでも誰かと電話やメールをしているというようなエピソードを何度か聞けば、わたしはそこから寂しがり屋という性格をこしらえるのです。ほら簡単。わたしのなかのアイドルの出来上がり。

ただ一点だけ断らなければいけないことがありまして、料理のレシピとちがって、わたしはここに所要時間を記すことができません。なぜなら、何かの拍子でもう作り直せないほどに像が壊れたり、あなたが像を作ったり愛でたりすることに飽きてふすまの奥にしまってしまったりするまでこの工程は終わらないものであり、なによりあなたの時間さえもこの材料だからです。また、このレシピを読んだからといって虚像を作りたくなるわけではありません。その欲望はあなたに気づかれないように足音をたてずに忍び寄ってくるものなのです。

 

最後に

この文章を最後まで読んでしまったあなたが、素敵な偶像崇拝ライフを送れますように。

 

ほんとに最後に

もしわたしのブログの記事をいくつかご覧になった人がいればわかると思うんですけど、記事によって内容や文体がかなり変わる人間なんです。その前に読んでた文章に影響されてるのかな。というのも、今日は、ありそうでないと思われがちだけど実はあるという意識の中にあることができるというような文章を読んだのです。